お知らせ

こんにちは。ひさしぶりの投稿となります。

実は、先日、肺ガン検診をしたのですが、要精密検査、という結果となりました。検診していただいたお医者さんから紹介された病院に行って精密検査(胸部CT)をしました。

ドーム状の機械を背に横たわると、するするするとその中に体が入ってゆき、息を大きく吸って止めてくださーい、と天井のスピーカーから声がして、その度、キューンキューンと電子的な音がして、おそらく体を輪切りにしてレントゲン写真撮ってるんだろうなあ、なんて思っているうち、検査室のドアがガシャンと開いて、

はいお疲れ様でした、異常ありません、詳しくは後ほど~、

と先生が仰り、あっけなくて、結果がどうでもポーカーフェイスでいよう、なんて心掛けていたキモチが急に萎えて、はぁ、ありがとうございます、と、なんだか情けない声で返事をしながら、緩めていたズボンのベルトを締めたのでした。

診察室での詳しい説明の時にモニター画面に映し出された僕の胸の中の画像は、血管や骨は白、その他は黒、余計な白があったら困るわけですが、そのような余計な白いものは見当たらないことをとても丁寧に説明してもらいました。説明を聞きながら、宇宙空間を漂う輪切りの骨格標本みたいなものを想像してしまって、おまけに台風の日で雨の音が凄かったので、不思議な気分になりました。

ま、そんなこともありましたが、何があってもポーカーフェイスとはいかないでしょうが、僕は人生に妙に期待したりしないように、悔いのないように、ということを大事に思っています。やりたくないことはなるべくやらず、やりたいことはとりあえず何でもやってきました。やれば、自分の程度(そのジャンルにおいて他人に必要とされるだけの向き不向きみたいなこと)というものもはっきりするので、期待や悔い(ああすれば良かったかも、こうすれば楽しかったかも、みたいの)も減ります。程度とは別に、好きな事は続ければいいのだと思っています。ポーカーフェイス、なんか出来るわけないのですが、キモチとしては、明日死んでもまあしょうがないな、くらいにはいつも思えています。勿論、積極的に死にたくはありませんけど。

ニヒル牛マガジンはほんとーーーに好きに書かせていただいて、ほんとーーーに感謝しています。
うっかりほんとーーーに好きに書いたものだから、結構自分が丸裸になってしまって、もう、もしかしたらパンツも履いていないかもしれないくらいです。

というのは、大袈裟ですが、たぶんネタぎれなのでしょう。
投稿した後の自分の記事にどうも悔いのようなものが残ってすっきりしない。
たぶんそれは読む人もそうなんじゃないかなあ?って思うし。
なんだかキモチに余裕みたいなものも無くなってきて、書くのも楽しめない。
それにそれに、悔いとか生きるとか死ぬとか、そういうのがそもそも、時代遅れというか10周遅れというか流行らないんだから、もうやめたら?っていう声が、検査終了後の診察室で見せられた、白黒フィルムの画像の暗闇の部分から聞こえてきました。暗闇からホウキに乗った魔女が顔を覗かせてそう言ったのです。うじうじと自分とやらに関わるよりかアタイといっしょに暗闇を探検した方がずっと楽しいだろうよ!それにそれはきっと新しい修行なんじゃないかね?ってね(ちょっとウソ)。

自分の考え方を覗いてみる読み物、みたいのを書いていたつもりなんですが、今の自分にはそれが限界にきた、ということですね、たぶん。

そんなこんなを考えたあげく、編集長のニコさんやあるさんとかにも相談のうえ、ニヒル牛マガジンの連載は今回でおしまいにすることにしました。

今まで、毎週や時々、ここを覗いてくださった皆様、読んでいただいて、本当に光栄です。誠に、ありがとうございました。

また、連絡差し上げていないマガジンのスタッフの皆様、大変お世話になりました。キョーシュクです。ありがとうございました。

また何処かで皆様にお会いできたら嬉しいです。

では、ごきげんよう、さようなら!良い明日を!

お知らせ

こんにちは。
誠に勝手ながら、本連載をしばらくお休みさせていただきます。
すみませんが、よろしくお願いいたします!

               七尾 太佳史

耳のタコ


聞く技術006



先週は日本酒イベントに出かけたはいいが、売り切れで酒にありつけなかったのだが、今週、今度は「大江戸日本酒まつり」というのが神田大明神であるということで、リベンジでそれに行くことにしていた。ところが、前日の土曜日に仕事が終わると途端に全身の倦怠感+下半身に力が入らない、という正に風邪の一寸手前な状態となる。思えばその土曜日の午後には奇怪な出来事があって、寝ているとピンポーンとチャイムが鳴るから宅配便だろうと思ってドアを開けるが誰もいない。誰か間違って鳴らして去っていったのだろうと思い再び寝ようとするとまたピンポーンと鳴り、ドアを開けてみるが、しかしまた誰もいない。そしてドアを閉めて5秒後くらいにまたピンポーンと鳴る。だいぶ不可解な気持ちでしかし急いでドアを勢いよく開けるが誰もいない。アパートの2階で、数秒で姿を消せるような構造ではない。チャイムが壊れたのだろう、とその時は思ったのだが、その後深夜に1週間の仕事が終わって急に体具合が悪くなって、そうか、あれは、とりあえず日本酒イベントなんか止しなさい、というピンポーンなのだろう、と妙にストンとその考えがキモチに収まり、結局、日曜日はほとんど寝て、部屋の掃除を少ししてサウナで汗をかいて、また寝た。

聞く技術、なんていう、大袈裟で面倒臭そうな題名で始めた理由を実は忘れてしまったのだが、何かにつけて小さい頃からへそ曲がりな考え方をする性向があるので、そのせいかもしれないし、10歳くらいの頃、そうか!世の中にゼッタイなんて無くて自分の考え方次第なのだ、ということに突然気づいて、それ故このような面倒臭いものの考えになったのだろう、というのはたぶん違って、酒でヘロヘロになりながら気ままに生きる生活を続けて、今更、自分の考え方?ということが謎になってしまった、その続きなのだと思う。そして、この間の参議院選挙である。いや、どうも、あれは自分にとって、なんだかある諦めのキモチをはっきり持った事件で、いや事件というか具体的な選挙結果がどうのこうのではなくて、あれですっかりもう何かを諦めたのは確かで、その何かがわからなかったのだけど、「のんびり」という秋田の情報誌があるのだが、情報誌といっても、ものすごい密度の濃い、写真も充実した読み物で、その最新号06号の巻頭に編集長の藤本智士さんが「…僕はその大前提として「未来っていつ?」というのを今回の選挙で何度も問いたい気分になりました。結果、今回の選挙は「明日、明後日、景気が良くなる」といったとても短いスパンの未来が大勝したのだと思いました。…」というようなことを言っていて、あ、そうそう、これなのだ、と同感したのだ。目先のことしか考えない、のは自分もそうだから、キモチはよくわかる、しかし、そうか、いっせいに全国的にそうなのか、という、今更ながらビックリ、しかし、諦めたのである、という、どうやらそういうことなのだ。もはや、ニッチもサッチもいかない、ならば、自分のニッチを点検してみようかな、他人は変えられないけど、自分がいるぢゃないか、ってなこと。

とかなんとかゴゾゴゾ考えていた最近、K林さんから紹介いただいた「ゴマアブラ」という「肉食アーバン系! 汗かきエンタメソウルバンド!」にインスピレーションを得た。

そうか
オギャー!
なのだ。
アチョー!
なのだ。
未来とか現在とか過去とかではなくて、いつも生まれればいいのだ。
そういうののおまけが、あるいは添加物が、論理とかテクニックとかなのだ。
オギャー!
アチョー!
説明、じゃなくて、
オギャー!
アチョー!
を繋いでいく、
それでいいのだ、

では、なんのことだかわからないですね、すみません、ヒント、きっかけを得たのですが、まだ
オギャー!
アチョー!
の段階なので、たぶん来週には毛虫になると思います。

せば、まんづ。
 

聞く技術005



先週末に「見にけ!食べにけ!湯にけ!秋田けけけ祭り」っていう秋田県の観光キャンペーンが有楽町であるっていうんで行ってきた。会場でお猪口購入して秋田県内70銘柄の純米酒を試飲できる+秋田タパスっていう何とも惹かれるコーナー目指して、さて着いたところが、ほぼ全部売り切れ。なんだよ〜、がっかり。訊くと、午前11時開場だったのだが、正午までに売り切れたって。3日間のイベントの最終日だったからしょうがないのかもしれないが、たまには昼からお酒でも飲んでいい気分になってやるかと目論んでいただけにズッコケた。気分直しに銀座ライオンの7丁目本店に。初めて入ったのだが、日本最古のビアホール(創業昭和9年)っていう、なんとまあ趣のある店内であることよ。正面のタイルのモザイク画が凝っていて、しかしよく見ると大分シュールだ。半裸の女の人たちが小麦を摘んでいて、背景には工場の煙突。うーむ、モダンというのはどこか奇形的な要素があるのではないか?などと昼酒のぼんやりしたアタマで考えました。

ーーー

聞くぞ〜!と張り切って人の話に耳を傾けると、どうやら意味をすっとばして音声とか音質みたいのに気が行くように思う。しかもそれって気持ちいいのだ。相手の腹のあたりから息が出てくるのだが、最後の方でその空気が具体的な音に変換されて出てくる。ガリガリガリ、ジャージャージャー、たいてい何か震えのようなノイズみたいな成分が混じっていて、というか意味を超えて、それがその音声の本質のような気がしてまう。そんで、それが、嗚呼、心地よいなあ、と思ってしまうのです。かといって、話の内容が理解できないわけではなくて、そっちはそっちで別の場所(脳の別の場所なのかいな?)で処理しているようなので、特に問題は無い。不思議な感覚なのだが、それを楽しんでいる。聞くのが面倒くさいとか億劫とかいう気持ちが消えて、なかなか良い。
そういえば音楽を聞く時は、もともと意味なんか求めていない。求めているのは、うわー!いいなあ、とか、かっこいいなあ、みたいの。歌詞は意味、というより音声込みでのセンスだろう。センスなんてねえ、好き嫌いだから、どう言い様もないけど。
人の話にしても、音楽にしても、2分とか3分とかの音声の一塊りが醸し出すもの、もっともらしくてもなんだか嘘くさいなあ、とか、たどたどしいけど、こいつは聞き捨てならない(とは言わないね)とか。そういうのは聞けば聞くほど、わかる。気がする。
僕の命の恩人(おおげさだけどだいたいあっている)の鍼灸の先生は、治療の時にずーーーっと喋りっぱなしなのだけど、それは何故かとある日尋ねたら、返ってくる声の調子で、体の変化がわかるらしい。主に息が浅いとか深いとかみたいだ。息ね〜、慌てたり、困るとウワズルからなあ。息を聞く、ということも、十分に「聞く」ことなのだな。
そういえば、ダニエル・クオンの新譜は、さっぱりわからない。いわゆる「曲」みたいのは数曲しかない。鳥の鳴き声や、線香花火の音や、小学校の給食の校内アナウンスや足音やため息やその他いろいろの音が散りばめられて、でも全体で何かとんでもない新しい塊りになっている。いったいこれはなんなんだろう?という初めてロック(ロキシー・ミュージック)のレコードを聞いた時と同じ感触だ。わからない、というのは、自分の中にそれが記号化されない、みたいなことなのだろう。いいなあ、と思うのだから、自分の中に似たコードはあるのだろう。それにしても聞けば聞くほど更にいろいろ聞こえてくるという不思議。このCDの公式WEB(らしきもの)には、「耳で聴く映画」、「少量」ずつ聴くことを勧める、とあります。僕は気に入って、毎日「全量」聞いてしまっているけど。

ーーー

さて10月です。
そのダニエル・クオンのライブを「秋田ばる七尾」で10/14(月祭)に開催します。去年暮れに続き2回目。本棚的なスペースに演奏者たるダニエル・クオンが正対し、すなわちお客さんには背を向け、礼拝的なスタイルで行う、というようなことを冗談なのか本当なのかわかりませんが言っています。18時開場、19時開演、770円+1ドリンクです。予約制(090−6718−0785、18時〜)となっています。是非、お勧めです。
「いものこフェアー」も開催中!いものこというのは里芋の秋田県の方言ですが、特に横手市山内村産のものは、キメが細かくモチモチした食感であります。今が旬!なのです。定番のいものこ汁(醤油味、味噌味)の他、韓国チゲ仕立て、味噌チーズグラタン、茶碗蒸しのバリエーションでご用意しています。
そして、開店1周年です。なんとかフラフラしながらも地面に激突しないで航行続けています。全くもって支えていただいいているお客様のお陰です。本当にありがとうございます!
開店日の10/15から先着100名様に「秋田限定 あきたこまち使用のオランダせんべい」をプレゼントいたします。先着1000名様でなくて先着10000名様でなくてすみませんが、何卒よろしくお願いします。

すっかり日が短くなったなあ、

せば、まんづ。




聞く技術004



「清水宏のジャパニーズ・ロッキー」でとんでもない体験をしてきた。なんと目から汗が吹き出て止まらないのである。今はもう止まっているのだが、その日は日付が変わるくらいまでどうにもこうにも汗が止まらなかった。公演中に何度も「演劇」という言葉が使われるが、あれは演劇というジャンルを隠れ蓑にした暴力的な話芸である。通常、演劇や映画や小説とかは、主にストーリーという道具を使って上手に感情移入の状態に導き、最終的に観客にカタルシスが発生するような仕組みになっているものがほとんどだが、清水宏は最初から最後までこちら側の耳穴を全開にさせて、ダイレクトなコミュニケーションを強要し、それはほとんどの場合成功する。僕はそういう尋常ならぬ状態に尋常ならぬ反応として、目に汗をかきまくってしまったのだろう。泣いて目を真っ赤にしている、と勘違いされるのも嫌だったので、うつむき加減に渋谷の道玄坂を下って駅に向かった。たぶん、何かを語って相手に納得させる、というのではないのだろう。話者の気持ちになってしまう、のでもない気がする。何が何だかわからないまま、何処かわからないが何処かへ強引に連れ出される。たぶん、それだけである。其処で何か説教されたり布教されたりするわけではなく、しかし、公演が終わると、その非尋常の記憶と共に、街中に放り出される。それが催眠術なら、ポンと手を叩いて何事もなかったかのように日常に戻れるわけだが、そういう意味であれは催眠術ではない。もっと恐ろしい。実際怖いもの見たさで行ってしまったのだから、僕もそれなりに恐ろしいものが好きなのだろう。恐ろしいのは、侵入されることである。自分という城の一部を食い破ってエイリアンが侵入してきて、城の作りをいじられる。清水宏がロープを手繰っているジェスチャーを見て、思わず何もあるわけない暗闇の上の方を僕の目はうろうろ探してしまう。ああ、なんて簡単に食い破られてしまったのだろう。ちょっと期待していたとはいえ。

いや、清水宏論ではないのだ。

そんな尋常ならざる状態ではない普通の日常で、アタマを真っ白にして人の話を聞くということはできるのだろうか?ってことなんだが、真っ白、って空っぽということではなくて、先入観無しに聞くことが出来るのか?ということなのだが、自らそれをするとすれば、聞きつつ相手に成りきる、ということなのではないか。聞こえるものを辿って相手に成ってみる。

それはもしかして、逆清水宏になる、ということではないのか?喋りまくるのではなくて、聞きまくる。自分に理解という隙を与えない。話に犯されることを恐れない、暴力的に、積極的に、聞く、のである。あるいは自分と話すその相手は、ある意味、超スローモーションの清水宏である、

もしかして、清水氏は、日常では、聞き魔、だったりして、

な~んて、勝手な想像。

ーーー

内田樹氏のTWITTERで興味深いのがあったので、転載。
(氏は以前、自分の発言はコピペでも何でも好きに使っていい、と発言してたので、加工はしませんが、ひとかたまりと思われる発言群より)

コミュニケーション能力とは「コミュニケーションが不調に陥ったときに、言葉が通じなくなった相手との間になんとか架橋して、コミュニケーションを蘇生させる術」のことです。円滑にコミュニケーションする力ではなく、コミュニケーション・ブレークダウンから逃れ出る力です。
2013年9月12日 - 16:38

そのためのふるまいは一言で言えば「私は私の立場をいったん離れる。ついてはあなたもあなたの立場をいったん離れてはくれまいか」というものです。「私は私が従っているコードを破る。だからあなたもあなたが従っているコードを破ってはくれまいか」と懇請することです。
2013年9月12日 - 16:41

素朴な攘夷論者であった坂本龍馬は開国論者の幕臣勝海舟を斬り殺すために屋敷を訪れました。海舟は「おまえさんがたのようなのが毎日来るよ。まあ、おあがり」と座敷に通し、世界情勢について長広舌をふるいました。それを聞いて龍馬はたちまち開国論に転じ、その場で海舟に弟子入りしてしまいました。
2013年9月12日 - 16:43

海舟は「テロリストを座敷に通す」というかたちで幕臣のコードを進んで破り、それによって龍馬に「一時的に自分のテロリストとしての立場を離れてひとの話を聴く」という立場に誘いました。これがコミュニケーション能力の典型的なかたちです。
2013年9月12日 - 16:44

幕末の逸話をもう一つ。山岡鐵舟は勝海舟の委嘱を受けて、駿府の総督府に江戸開城交渉のために西郷隆盛を訪ねたことがありました。薩人益満久之助ひとりを連れて鐵舟は六郷川を渡り、そこで篠原國幹率いる官軍の鉄砲隊と遭遇しました。そのとき鐵舟は大音声でこう名乗りました。
2013年9月12日 - 16:47

「朝敵徳川慶喜家来山岡鐵太郎、総督府に罷り通る」。篠原はその迫力に気圧されて道を空けたそうです。これも困難なコミュニケーションの架橋を果した希有の例でしょう。鐵舟は幕臣であれば決して口にするはずのない「朝敵家来」という名乗りをなすことで「幕臣のコード」を一瞬離れました。
2013年9月12日 - 16:49

私は幕臣であれば決して口にすることのない「朝敵家来」という名乗りをなして「私のコード」を破った。あなたも私を通すことで「あなたのコード」を破ってはくれまいか。その鐵舟のメッセージを篠原はただしく受け止めました。真のコミュニケーション能力とはこのことだと思います。
2013年9月12日 - 16:54

内田樹@levinassien


お互いの主張を「超えて」いいのなら、戦争もそういう手段ってことなのか?なんて一瞬思ったけど、そういう原理原則論を氏は言っているわけではないだろう。その度その度の新しい架け橋のこと、お互いの、お互いを、あきらめない、勇気、イコール自分たちが生き延びる術、みたいなこと、じゃないのかなー?



お知らせ

いつも読んでいただきありがとうございます。
今週の記事は、都合によりお休みします。
来週は書きますから、またお立ち寄りください。
すみませんが、よろしくお願いします!
ナナオ


聞く技術003



この食品は何キロカロリーです、とかいうことがあるけど、そうはいっても、消化されないと意味がない。300グラムのステーキを食って、100パーセント消化されれば300グラム体重が増えるだろうが、スルスルスルーって胃腸をスルーしてしまえば、食っても食わなくても同じみたいな。

聞く、というのも、そういう面があるだろう。
聞いた、っていっても、何を聞いたのか?
言った側は、それがどれくらい、あるいはどのように聞かれたのかは、わからない。

命令、なら、わかりやすいのかなあ?
手を上げろ、って言われて、手を上げるのは、手を上げないと文句を言われる、あるいは酷い目にあう、という予想があるからそうするわけだが、それは元々そういう上下関係があるからそうするわけで、ふざけあってる友人同士でそんなことを言ったら、うぎゃーって言って逆立ちしたり、ズボンを脱いだりするだろう(しないか)。

ん?聞く、というのは、始めに関係ありきなのか?

ニヒル牛マガジンの記事は今回で181回目らしいが、手を変え品を変えながら、結局、僕って何?っていう自分という現象をしつこく飽きもせずに追っているような気がする。それを毎週何人かのヒトに聞いてもらっているのは、これも「関係」ってことなんだろうなあ。聞き続けてもらえていたとしても、消化不良だったり、胸焼けしたり、いろいろあるのだろう。食べてもらえる、いや、読んでもらえるって、本当にありがたいことである。

聞くということでカタルシスが得られたら最高だと思う。
魂の浄化、すっきり感、胸のつかえがとれて涙ホロホロ感、みたいの。

数日前、お客さんに、生ビールの生、って何ですか?って尋ねられて、生って非加熱ってことです、って答えて、じゃあ、コンビニとかの缶ビールとかはみんな加熱なんですか?って続けて尋ねられて、うーーーん、わからなかった。その場で調べてみると(ケンサク)、おや、なんと現在の市販のビールとはほとんど生、すなわち非加熱である。酵母、その他の微生物を濾過する技術が進んで、また、非加熱、というのが売れるから。え?じゃあ、いわゆる樽生と、瓶ビールの違いって何なの?っていうと、どうやら、どっちも生ビールなのだけど、瓶ビールは瓶にビールを詰める時に、樽に比べると空気に触れる(酸化)ことが多いのと、樽生はサーバーから注ぐ時に炭酸ガスを加えることでシュワシュワ感が増すし、きめ細かい泡をつけることができる、っていう違い。何しろとにかく、日本国内の市販のビールはほとんど生っていう、えー、知らなかった!っていうことで僕はひとり興奮してしまって、肝心のお客さんは置いてきぼり、ひとり語るシス。

つーか、聞くべきところが、違ったのかもしらんね。

小学生の頃、夕飯はちゃぶ台を囲んで、というモロ昭和な家だったのだが、あのねー、あのねー、と、その日あったことの説明やら質問やら、僕はひたすらウルサかった。と、ある日、口をつぐんでみよう、というアイディアを思いついて実行したら、とても楽しかった、っていうのを、最近思い出したのだが。

たぶん、聞くのが面倒くさい。そんで早合点、というか、ちょっと聞き出すとアイディアやストーリーが勝手に膨らみ出して、聞くのが続かない。

話す、というのは、ほとんどが、まずは、立て板に水、みたいなもんじゃないのか?立て板の向こうに水がザブンと届くわけないから、まずはチョロチョロくすぐってみる。聞く方も立て板でうまく水を避けながら様子を伺う。

そんなこんな、聞く、というのは「発見」の過程には違いないだろう、

なんてことをブツブツ書きながら寝てしまって、UFOの夢を見た。木造アパートに最初から設置されているような箱型の蛍光灯型UFOが、空から僕の方に降りてきて僕と合体してしまった。

ちょっと宇宙人にいろりろ聞いてみる。

では、また(つづく)。




聞く技術002



仕事帰りの明け方、少しだけ空が明るくなってきているけど、結構星が見える。月は三日月。アポロだっけ?アソコに行こうだなんて、想像力というのは本当に逞しい。人類って物凄いもんだ。でも、月を見て、アソコに行けたら凄いなあ、とワクワク出来てるうちはいいが、行ってしまったら簡単にはワクワクしないんじゃないかな?さらに遠くに行こうとする人類って、もうワクワクではない気がする。ま、でも、月に行ったことがあるのは、自分ではないしね、もしかしたら人類が月に行ったなんて全部ウソかもしれないし。今後自分が月に着陸することなんてあるわけないし、人類とは無関係に勝手にワクワクすればいいのだね。人類の歴史とか、三日月見ただけなのに、余計なことを考えてしまったぜ。ついでに、ゴミ置き場に雑誌がたくさん縛って置いてたの見て、エロ本混じってないかなあ?とか余計なこと考えてしまったぜ。明け方にワクワクを考えると止まらないから、とっとと寝るのだが、ちょっと寄り道。

ーーー

高校の倫理かなんかの教科書にも載っているやつで、「マズローの欲求段階説」というのがあるが、今更ながらにこれを眺めてみて、人間そんなに単純ではないと思うが、欲望の種類分けとしてはよく出来ていると思うし、欲望と行動について考えるたたき台としても面白い考え方だと思う。
人間の欲求を5段階にピラミッド状にあらわしていて、欲求は段階を飛び越すこと無く下から順番に満たされていって、ある段階の欲望をいったん満たすとその段階では更なる満足感は得られなくて、次の段階へ進むっていうもの。



実際の人間のココロって、いろんな種類の欲望がその時々でこんな単純なピラミッド状でなく、入れ替わり立ち代わり現れては消えるようなもんだと思う。

この原則とは逆に、自尊心面倒くさいから乞食になってしまおう、ということもあるだろうし、人間のココロの移り変わりは複雑怪奇である。

この欲求段階説が正しいかどうかより、欲望に種類と段階があるという考え方が面白いと思う。そしてお金があればだいたいの欲求は満たされる。だから、金持ちが乞食になれば、堕ちると表現されるし、極貧のテロリストは、ターゲットの命や寝る所を破壊する。

ところで、当たり前だが、鼓膜で音を聞いているわけではなくて、音を意味に変換して、聞いて、いる。

おや、これは、ビートルズの、イエスタデイだな、ポール・マッカートニーの声だな、ドラムの音だな、コーラスだな、ということの他に、うるさいとか、歌詞の内容がどうとか、そのうえで好きとか嫌いとか。

あるいは、誰かのゴシップみたいな覗き見話ならほとんど耳にしっかり入るだろうし、みなさん落ち着いて聞いてください、と言いながらも声が震えているアナウンサーの臨時ニュースは一言一句聞き漏らさないように集中するだろうし。

欲望というより、気分かな?聞く=INPUTすると、「マズローの欲求段階説」的な気分がそれに呼応する。

耳に入る入らない、聞こえる聞こえない、というのは、音がしているかどうか、相手が話しているかどうか、ではなくて、実は(ほとんど)無意識的に、聞く強度、とでもいったらいいのか、取捨選択して、興味のわくこと、その時必要なこと等等、聞く人の欲望に大きく左右される。その話なら聞いたよ、と言う人がいたとして、その話をソラで同じように録音したかのように再生できたとしても、何を聞いたのか、は分からない。分かるとすれば、その前後のその人の欲望(行動)の傾向の変化とかそういうものだろう。

極貧のテロリスト、ならぬ、マネーの虎は、だいたいがピラミッド式の欲望の原則で、楽しそうな話を囁くわけだけど、そこから自由になるのは、たぶん、凄く大変だ。囁くのは虎だけではなくて、ネットニュースの片隅で恋愛指南とかいろいろ、っていうか、世のほとんど、満員電車の理由。

シアワセのピラミッドの形や順番は自分で決めた方がいいに違いない。そして、聞くと、いちいち建て直しになるかもしれない。その両方は、自由だ(つづく)。

ーーー

月曜定休が日曜定休になって第一週目、曜日の感覚がずれている。月曜が火曜みたい、火曜が水曜みたい。

昼夜が逆転の生活、ではなくて、毎日夜更かしして、起きないで昼寝、なのだろう。

そんなことどうでもいいかあ。

そんなもんだ。






聞く技術001



夕方に咲くアサガオみたいのだろうと思っていた。実際、小学生の頃、庭に植えたユウガオは、薄暗くなる頃に白い花が咲きだして、朝までにはしぼんでいた。ところが秋田県十文字町の農家さんから届いたユウガオはそれではなくて、自転車の籠から大分飛び出すような瓜だった。咲くユウガオは正しくはヨルガオで、食べるユウガオは味噌汁や炒め物にして、今週はそれがお店で好評でした。

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非常に疲れている時に、人の言うことを聞くのは面倒くさいもんだ。特に、あれがどうしてこうなって×××、なんていう理屈めいたことは、もー後にしてくれー!、という気持ちになる。早いとこ話が終わらないかなあという思いが強くなるから、相手の言っていることや言いたいことを理解するには至らない。もう一方、言う側は、相手が疲れていても疲れが一気に吹っ飛んでINPUTの興味が沸くような、そんな工夫をすればいいわけだが、とりあえず聞き方について、なので、言い方の工夫については、パス。

聞き方の工夫ということ。生身の人との会話に限らず、メールを読んだり、読書したり、ネット上の記事を読んだり、あるいは映像や音楽、そういうINPUT全般について考えてみたい。まずは受ける側の自分の性向というのが要チェック事項だ。聞く、受信する自分という機械の性能や特徴を理解しなきゃな。

聞くというのは自分とは異なる人の発するものを理解するわけだが、あー、知ってる知ってる、わかるわかる的に、相手と自分を安易に同化してしまいがち。理解、というのは面倒くさいからね。特別な勇気がいるような気がしたり、とか。理解が自分を侵食するのではないか、自分が崩れるのではないか、とか。理解する前に反撃しなくては!みたいな。

ところで、自分が何か自分の漠然としたもやもやの正体を探しているような状態、そういうときの「要なんでもINPUT」みたいなのが必要な状況というのはあるが、そういうのは、聞いているのではなくて、単なる材料探し、ネタ探しとしておきたい。その結果、たくさんの材料を仕入れて解決に向けた問いが明らかにになるかもしれない、あるいは、イメージがわいて何かを作るヒントになるかもしれない。しかし、聞くというのは出来るだけまっさらな心の状態で行われるのが良いのだと、今のところ、思う。

とはいっても、なんといっても人間であるから、特に対面の時がそうだが、格好つけたり、恥ずかしかったり、暑かったり、寒かったり、臭かったりということがあるから、ちゃちゃ入れずに、飽きずにしっかり人の話を聞くなんていうのはなかなか難しい。というか、その辺は対話の技術でもある。でもここでは、対話の一場面としての、しかし対話の本質としての、聞くということ、という(半分の)側面を問題にしてみたい。

自分という聞く機械、その性能がどういう癖があるのかを客観的に知っているといいと思う。発せられ、受け取る言葉はいつも喜びに満ちているとは限らない。むしろ恐怖や怒り、不安、危機というネガティブな感情の伴った内容が、聞くことにとっての最大の問題だろう。ネガティブな感情そのものは、今後生き延びていくうえで、アラーム!として、生き延びるために必要な感情であって、そのものは大事な感情である。ただ、それが発せられることと、それを聞くことは、また別のことと捉えなくてはいけなくて、例えば、安易な共感、ということが聞くことにとって障害になることもある、ということ。

その感情や気持ちに焦点をあてて考えたのが心理学ということなのだろうか?あるいは精神分析学とか。フロイトとかユングとか。その歴史をざっと追ってみて面白いと思うのは、最初は霊魂学みたいにちょっと肉体性があるとこから始まって、それが心理とか精神みたいに肉体とは別個の存在みたいに切り出して扱うようになって、現在では意識の流れ、あるいは情報処理の過程としてとらえるようになってきている。感情や気持ちというのは、それは独立して存在しているんじゃなくて、外界との関係であるということ。ならば、聞く、というのを考えるのは、益々面白いことだと思う。言うのが先か、聞くのが先か、どちらが先に起こったのかわからない。しかし、どちらも別々の行為で、同時に同じことが起こったら、ハウリングみたいに、ショートみたいに、それは悲鳴にしかならない、みたいなことになるだろう。

さてね、その感情や気持ちというのは、どういう風に動くものなのだろう?聞き方というのは、話す方と聞く方の相対性理論みたいなものなのだろうか?

ーーーーーーーーーーー

ところで、またモーリー・ロバートソンの話。先週のラジオ番組(block.fm)で、2020年くらいまでには日本でも大麻が解禁されるだろう、という予想と、その根拠を言っていた。最終的には自由が勝利するのだ、とかそういうことでは勿論なくて、現在の中南米というのは麻薬ギャングが支配していて(武装力もハンパない)、その勢いを止める手段として麻薬(大麻、少量のコカイン、覚醒剤)の合法化が南米、北米で進んでいて(合法化により麻薬の値段を下げ、ギャングの独占を防ぐ)、そうすると今後はギャングのターゲットは麻薬非合法の先進国になっていくから…という。トンデモ話に聞くか、とりあえず聞いておくか、聞いて慌てふためくか、聞くというのは、見ることと同様、結構覚悟が必要なことだなあ、と思う。冷戦以降のCIAが関わって生まれたアルカイダとかこの麻薬ギャングについて、その始まりはたぶん、他者への恐怖(アメリカ、という、「私」分裂症候群の行き着いた端的な場所)で、それを、恐怖を、誰かにそのままの感情で話すことは恥ずかしかったのだろう、っていう雰囲気については想像できるけどねー、そんな簡単なもんじゃないだろうけどねー、支配的な雰囲気に逆らうっていうのは大変だからねー、男たるもの弱音を吐いちゃいけないみたいなねー、ねー、聞いて聞いて!、なんて(あんまり)男は言わないし、黙ってオレの言うこと聞け!ってところで、言う方の負け、なんだけど、ほんとは(続く)。


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七尾太佳史
(ななおたかし)

「秋田ばる七尾」店主。毎週水曜日更新です。


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